「釣れないねェなァ……」
「釣れないねぇ……」
ぴくりとも動かない浮きを見て、ルフィが漏らしたぼやきに、ベポはのんびりとした返事を返した。

ここはハートの海賊団の潜水挺のデッキ。

その隅に陣取ったルフィとベポは、かれこれ1時間以上反応をしない竿を持ったまま、背中を並べている。
まるで二人の周りだけスローモーションで時間が流れているような、眠気を誘う空気だ。
その雰囲気にあてられたように、ベポはふああ、と欠伸を漏らす。

さっきまで嵐のように騒がしかったのが嘘のようだ。
二人の様子を眺めていたローは、つられて洩れそうになる欠伸をかみ殺しながら、ほっと胸をなで下ろした。
ローの視界では、見慣れた麦わら帽子が持ち主の動きにあわせてゆらゆらと揺れている。
ローがどこから二人の様子を見ていたかと言えば、”ルフィの下で”と表現するのが正しいだろうか。

ローはルフィが釣りを始めてからずっと――膝の上にルフィを乗せて、椅子代わりになっているのだ。
後ろから3人の様子を伺うクルー達の視線が突き刺さってくるのをひしひしと感じるが、当のルフィとベポは全く気にした様子もない。
ローが黙っていれば、ルフィとベポはもう2人の世界に入ってしまって、釣りとその合間の雑談に没頭している。

「ルフィ、本当に女ヶ島にメスのクマはいなかったのか?」
「うーん、蛇ならうじゃうじゃいたけどよぉ……クマだったらゾウにいっぱいいるんじゃねェか?」
「おれは地元の子とはレンアイしない主義なの!」
「おお!?なんかカッケーな!!」
「でへへへ……」

「クマの恋愛トークに着いていってる……すげェな麦わら……」
「キャプテンおいてきぼりになってないか?」
「がんばれー!キャプテーン!」

甲板の向こうで声を揃えるクルー達に「頑張れも何もあるか!」と叫びたい気持ちを抑えながら、ローはそれをごまかすように膝上のルフィを抱き直した。
ゆさゆさと体が揺れるのも気に留めず、ベポの方を向いてキラキラと目を輝かせているルフィを見て、ローは小さく息をつく。

機嫌よくいてくれるならそれでいい、今日は『そういう日』なんだから。
そんな風に思い入れながら、2人の様子に目を注いでいると、不意にクルー以外の声が耳に入ってきて、ローは意識を後方に向けた。

『ルフィの様子はどう?』
『あら……今は3人で釣りをしているのね、ふふっ、拗ねてないみたいでよかったわ』

電伝虫越しに聞こえてくるのは、麦わらの一味の女性陣――ナミとロビンの声だ。

「こっちに来てからはずっと上機嫌です!ご心配なく!」
「麦わらのことはおれ達にお任せを!」
「……そこはキャプテンに、じゃないのか」

浮ついた様子のシャチとペンギン、そしてその2人を窘めるジャンバールの声が聞こえる。
船長のことを心配した2人が、様子見に電伝虫をかけてきたのだろう。
ちらりと後ろに目をやれば、わざわざ一台しかない映像付通話ができる電伝虫を持ち出して、わあわあ騒いでいるシャチ達の姿が目に映る。
人並みに美女に弱いクルー達は、2人に良い所を見せようと躍起なのだろう。

ローは呆れたようにため息をつきながら、膝上にいるルフィに視線を戻した。
ハートのクルー達が普段から騒がしいことはとっくに承知済のルフィだ。後ろで繰り広げられている騒ぎも、特に意に介した様子はない。

ルフィがローの船に遊びに来るということは、今まで何度もあった。
それなのに何故今日に限って、こんな大騒ぎになっているのかといえば――

ルフィは今日一日、ローに『貸出』されているからだ。



今までの経緯を順を追って語ると、元々今日はローの方がサニー号を訪れる予定だった。

遡ること数時間前、約束通りの時間にローの潜水挺はサニー号の隣に横付けた。
いつもと違うことと言えば、今回はロー1人だけではなくハートのクルーからも数名がサニー号に乗り込む予定になっている、という点だけだったのだが――
能力を使ってサニー号の甲板に降り立ったローは、普段とは打って変わった静けさに首を傾げた。

いつもならローの姿を見つけたルフィが――文字通りの意味で――飛んでくるか、甲板にいる誰かしらが出迎えてくれるはずなのに。
ローに同行していたベポやシャチやペンギン達も不審に思ったのか、きょろきょろとあたりを見回している。
「いやに静かっすねぇ……」
「あァ……」

何か問題でも起きたのだろうか、と訝りながら甲板に目を配るも、人の気配が全く無い。
仕方なくローは、誰かしらいるであろうダイニングキッチンへ続く扉の方へ足を進めた。
クルー達から「勝手に入っていいんですか?」と不安げな声があがったが、そんなことを気にする一味ではないだろう。

おそるおそる、といった様子でローの後を着いてくるクルー達、その前を緑色をした気体のかたまりが――そうとしか表現できない――横切った。
「あぁー良かった!トラ男さん方、来てくださったんですねぇー」
「ぎゃああああー!オバケェぇえー!!昼間から!昼間から!!」
「ヨホホホ!いーい反応ですねェー!タマシイ冥利に尽きます!」
声のする方へと振り向けば、空中にはふわふわとブルックの『中身』が浮かんでいてーーそれを初めて見たハートのクルー達は腰を抜かしてしまっていた。

「お前らよく見ろ……ホネ屋だろうが」
「流石にトラ男さんはもう驚きませんねぇ……」
残念そうに一人ごちるブルックに、ローはじっとりとした視線を送りながら腕を組んだ。
「誰もいねェから、勝手に上がらせて貰った――他の奴らはどうした」
取り込み中なら改めるが――と続けるローの言葉を遮るように、ブルックは宙に浮いた顔を横に振った。

「いーえ!トラ男さんには是非居て貰わなくてはいけません……実はここ数日、ちょっとした問題が起きていましてねぇ」
「問題?」
話がわからず首を捻るロー達を「まぁ様子を見てください」と、ブルックがダイニングへと招き入れる。
そこには麦わらの一味全員が揃っていた。

「トラ男ー!やっと来たんだなー!」
「真打ち登場ってなァ!」
「ったく……このバカをなんとかしてやってくれよ」
各々の声に騒がしく出迎えられて、瞬く間にローはダイニングテーブルの椅子へと座らせられる。
状況がわからずよろめきながらも、やっとの思いで顔を上げて、目に飛び込んできた人物。
その表情を見て――ローはおおよその事情を飲み込んだ。

ローの目の前の椅子には、至極不機嫌な様子のルフィが、頬をリスのように大きく膨らませて座っていたのだ。

「ルフィは珍しく”思い出し怒り”してるらしいのよ……」
まだ状況を飲み込めていないハートのクルー達を見たナミが、ここ数日のルフィの様子を語り始める。

数日前、ローと麦わらの一味はある作戦で共闘していた。
海軍に捕まってしまったハートのクルーを解放するため、一味に協力を仰いだ、というのが事の経緯だ。
今日、サニー号にクルーを連れてきたのは、クルー達が「麦わらに礼をしたい」と申し出たからなのだが――
どうやら、その作戦の中でローがルフィの怒りに触れてしまったらしい。

「”同盟は終わりだ”っつった!」

唇を尖らせて不機嫌そうな声で唸るルフィに、ローは思わずたじろいだ。
正直、ここまでへそを曲げたルフィを見るのは初めてだった。
「あれは作戦だと先に言ったろう、聞いてなかったてめェが悪いんじゃねェか」
動揺を声に出さないように努めながら、そう反論するが、ルフィは聞き入れる様子もない。

「いんや!おれはふかーくふかーくキズついたんだ!」
ふんす!と興奮したように鼻息を漏らしながらし、そっぽを向いてしまうルフィ。
これではとりつく島も無い。どうすべきか考えあぐねてローが黙り込んでいると、後ろからゾロの声が飛んだ。

「男が傷ついただなんだ言うんじゃねェよ、情けねェ」
「むー!!!」
「ゾーロー!黙ってろよ!お前がそんなこと言うからルフィが余計ににヘソ曲げるんじゃねェか!」
「コラ、ルフィ!ストロー噛むんじゃねェ!行儀悪ィな」

そのままわあわあと言い争いを始めたゾロ・ウソップ・サンジをよそに、ルフィはぷくっと膨らした頬の空気をストローに吹き込んでいる。
コップにそそがれたジュースにプクプク浮かぶ泡は、まるでルフィの頭がかっかと沸騰しているさまを表しているようだった。

はぁ、と大きくため息をついたナミにローは視線を移した。
「麦わら屋はずっとこんなザマなのか」
「ずっとって言うか……思い出したらへそを曲げちゃうみたいね、でも滅多にないご立腹具合よ、トラ男君が元凶なんだから、なんとかしてちょうだい!」
バン!と強く背中を叩かれて、ローは再びルフィの方へと向き直った。じとっと睨み付けてくる大きな瞳に、ローは背に汗が流れるのを感じた。

「あー……」
ローはばつが悪そうにガシガシと頭を掻く。
『同盟解消』だなんて演技の中で思わず口をついて出た言葉だったが、まさかルフィがここまで深刻に受け止めるとは思いもよらなかった。
「……悪かった」
ぽつり、と呟かれたローの言葉にルフィは細めていた目をぱちぱちと見開く。
「どうすれば、お前の機嫌は直るんだ?」
「……わかんねェ」
途端しおらしくなったルフィの声色に、部屋にいた皆が静まり返る。
「おれだってわかんねェ……でもああ言われた時なんか”足りなくなる”気がしてよぉ……思い出したらイヤな気持ちになるんだ……おれはトラ男といてェのに」

そのまましゅんと目を伏せてしまったルフィ。
その姿を見てローの胸中には――猛烈な“恥ずかしさ”がよぎっていた。
一味達の妙にあたたかい視線が体に刺さる。
ブルックに至っては「ルフィさんいじらしい……!」とハンカチまで取り出しているし、今まで自分達のせいで話が拗れたのか?と小さくなっていたハートのクルー達も、何故か潤んだ瞳を輝かせている。

さっきまでとは打って変わった、ほっこりと見守られているような空気が耐えられない。
頬がかっと熱くなるのを感じ、ローはぎり、と奥歯を噛みしめる。
「あークソッ!!」
バン、と大きな音を立てながら席を立ったローに、部屋中の視線が集まる。
テーブルに打ち付けた両手がビリビリ痛むのを感じながら、ローはルフィの首根っこを掴んだ。
「トラ男?」
何が起こったのかわからない様子のルフィは、目を丸くしながらローの顔を見上げる。

「ナミ屋、今日一日麦わら屋を借りるぞ」
ルフィの後ろ首を掴んで、扉の方へ向かうローは、まるで言うことを聞かない子猫を運ぶ親猫のようだ。
「そんなに一緒にいてェってんなら、好きなだけ付き合ってやるつってんだ!ただし今日一日だけだぞ、その間にちゃんと機嫌直せよ!」
じっと見つめてくるルフィの視線に耐えかねたのか、ローは勢いをつけてそう言い捨てた。

ごちん、と音を立ててぶつかった額。
少しだけ体に走った衝撃に――ルフィはようやく顔を綻ばせた。

「しししっ……おう!わかった」
現金なルフィの態度にナミは呆れたように腕を組みながら、小さく息をつく。しかしその唇は、ほっとしたように優しく潤んでいた。
「なによもう機嫌直ってるじゃないの……わかったわ。ルフィ!あんたは今日一日トラ男くんにレンタルだからね!ちゃーんと甘やかしてもらって、ご機嫌で帰ってきなさいよ!」



こうして、ルフィは一日ローに『貸出』されて、一緒に過ごすことになった。

せっかくなら近場の栄えた島に付けて、美味いものでも食わせてやるか、なんて考えていたローだったが、ルフィから返ってきたのは意外な言葉だった。

『おれトラ男の船がいい!トラ男の仲間にもあいてェしなー!』

そうしてハートの海賊団の甲板に降り立ったルフィに、一番奮い立ったのはローではなくクルーの面々だった。
「おれたちが捕まったせいでこうなったんだから、おれたちでキャプテンと麦わらを応援するぞー!」と円陣を組み勇んでいるクルー達に、一抹の不安を覚えたのは記憶に新しい。

「麦わらは船の仕事も手伝ってくれてるんですよー!」
『まぁ、そうなの?』
「さっきまでは甲板の修繕と洗濯を一緒にやってて――」
後方では、クルー達がナミやロビンに船長の様子を報告する会話が続いている。

ルフィの方も張り切っているクルー達に応えるかのように、揃いのツナギに埋もれながら楽しそうに笑っていた。
なにか変わった動きを見れば「なにしてんだ?おれもやりてェ!」と突撃していくルフィ。
ローはその側に着いて回るばかりで――これじゃあおれに貸出じゃなくて、ハートの海賊団に貸出じゃねェか。なんて内心不満を覚えさえもする。
しかし、ルフィが楽しそうに笑う横顔を見たら、まぁこんな日があってもいいか、と絆されてしまう。
ローは今になってようやく、自分がどれだけルフィに甘いか実感をしてきていた。

「なーとらおー!くまがいいこと言ってるぞ!」
「ああっ!キャプテンに言わないでよ恥ずかしいー!」

不意に話しかけられて、ローははっと意識を現実に戻した。
何の話をしていたっけ、たしか女ヶ島がどうとか言っていたような気がする。と思い起こしているローを、ルフィは満面の笑みで見上げた。
「おれとトラ男は、ベツベツの所生まれでよかったな!」
ふと思い出した瞬間、ルフィがそんなことを言うものだから――ローは面食らってしまった。
急に、頬が熱くなるのを感じる。

麦わらの一味達の前でルフィが”そういう意味のこと”を言い出すのには慣れてきた――それもどうなのかと思う――が、自分のクルー達の前だとまた話は別だ。
隣で聞いていたベポは無邪気な様子で「いいなーキャプテン……」と指を咥えているが、引かれもせず、純粋に受け取られることがが逆に恥ずかしいとは。
面映さを誤魔化すように、帽子を深く被ったロー。
それでも周囲に漂うほわほわと気をあてられるような空気が消えることはなかった。

不意打ちで甘い雰囲気に持ち込むこともあれば、それを一瞬でぶち壊すこともある。というのがルフィという人間の常だ。
ローがどう返事をしようか思いを持て余している間に――ルフィの意識は、仕事を思い出したかのようにしなる釣り竿に移ってしまっていた。

「うぉぉお!!すっっげェ引きだ!」
「えェ!?ちょっと曲がり方が異常すぎるよ!!」

焦った様子のベポの声に、ようやくローは我に返った。
気がつけばルフィは自分の膝上から抜け出していて、甲板の柵ギリギリの所でギリギリといびつな音を立てる竿と格闘していた。

正直、嫌な予感しかしない。

麦わらの一味の船に同乗していた時、ルフィが釣りをしている姿を何度か見かけたが、まともな獲物を釣り上げたことなど一度もないのだ。
その証拠に――船の甲板はルフィが持っている竿に引きずられるように傾いてきている。
後方で美女たちとの電伝虫に夢中になっていたクルー達も流石に異変に気づいたのか、がやがやと船上は騒がしくなっていた。

「おい麦わら屋、非常識なのは自分の船だけにしろ」
「んんー!こいつしぶてェなー!!あとちょっとで釣れそうなのによぉー!!」
「聞けよ!!」
「くっそぉー!負けるかァァー!!」
ローの制止も聞かずに、ルフィは後方へと竿を一気に振り抜いた。
辺りが一瞬で暗くなり、ボタボタと上から水が――雨ではなく海水が――滴ってくる。

「ああああー!!!!」
ルフィが釣り上げた”獲物”を見て、悲鳴を上げるクルー達に舌を打ちながら、ローは手元に置いていた鬼哭に手をかけた。
「麦わら屋……後で覚えてろよ……!」
”ROOM”とローが呟いた瞬間、宙に浮き上がっていた獲物が――潜水挺の3倍はありそうな大きさの海獣――の身体が破断する。
二太刀、三太刀とローが鬼哭を振るう度に、ブツリと海獣の身体は細裂かれて――小さくなった破片が船へ降り注いだ。
「切断<アンビュテート>!!!」
「おおーっ!良いぞー!トラ男ー!!」

ボチャン!と大きな音を立てて海獣の破片が海面に降り注ぐ。そうして起こった波に、甲板は大きく上下に揺れた。
クルー達は皆ぱくぱくと口を開いたまま絶句している。
時が止まったかのように静まり返った船上には、ルフィが嬉しそうにはしゃぐ声だけが響いていた。

「よっしゃー!夕メシ確保だー!」
両手を叩きながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねているルフィ。
ローは鬼哭を鞘へしまい込みながら、深く深く息を吐くと、笑顔が浮かんでいるルフィの頬を思いっ切りつねりあげた。
「麦わら屋!てめェ人を料理人代わりにしてんじゃねェよ!!」
「いでェーっ!トラ男なんで怒ってんだ!?」
「自分の行動をよーく思い返してみやがれ……!」
「トラ男と“キョードーサギョー”ってやつだろ!」
「ほぉぉ……?随分な言い回しを覚えたじゃねェか……」

ローは遠慮の欠片もなく、ルフィの頬に両手をかけて、びよびよと何度もほっぺたを伸ばした。
今度は覇気を使っていないので痛みこそないだろうが、文字通りゴムのように頬を伸ばされて、ルフィは「ひゃめろー!」と気の抜けるような抗議の声を上げている。
何故怒られているのかは全くわかっていない様子で、ローは心の中でもう一度ため息をついた。

ちらり、と後ろに視線をやれば、クルー達は未だに茫然自失といった様子だ。中にはぶくぶくと泡を吹いている者もいる。
食料調達という名目で釣りでもさせていれば、比較的”被害”は少なく済むと思っていたが――
甘かったか、とローは肩を落とした。

あわあわと腰を抜かしているクルー達の中で、電伝虫――まだ通話は繋がっているようだ――だけがけろっとした顔をしている。
こちらの映像、腰を抜かしたクルーたちの様子は見えているはずだが、どうやら一味にとってこの程度のことは日常の光景なようで『今日は大物ね』なんて、笑いあう声が聞こえてくる。
(どうせなら”その後ろ”の光景も見せてやれ)と、ローは苦虫を噛み潰したような表情をしながら、電伝虫の映像に映らないように積まれた布の山に目をやる。

シャチやペンギンは「船の修繕や洗濯を手伝って貰った」と報告していた。
その事実に間違いはないのだが――『ちゃんとできていたかどうか』はまた別の話だ。
ルフィが金槌をふるった船の装甲はベコベコに凹んでいるし、全力で洗濯板に擦りつけた洗濯物はただの布キレになっていた。

その様子を見てクルー達は「客なんだから何もしないでくれ」と頼み込んだのだが、ルフィは「おれは客じゃなくてカリモノだろ!」と譲らなかった。
そうしてルフィは、名目上の”食料調達係”として釣りをするように回されたのだが――
「それでもこうなるか……」
思わず漏れたローのぼやきに、ルフィは不思議そうに目を瞬かせる。

何をさせればルフィの気が済んで、クルーと船の被害も最小限に済むのだろうか。
そうやって思案にくれているローの手は未だむにむにとルフィの頬を弄り続けていて――手慰みとしては十分役に立っているようだった。



「のばされつかれた」
「……悪かった」
ソファに座ったルフィは、へにゃりと前にある机に突っ伏したまま、ローに渡された濡れタオルで頬を包んでいる。
傷こそついていないが、タオルの隙間から覗くルフィの頬はほんのりピンク色に染まっている。
妙にさわり心地がよくて、つい手放すことができなかった。ローは自分の行動を思い出して気恥ずかしさを感じながら、それを誤魔化すように咳払いをした。

あの後ルフィは「料理を手伝う」と言い出したのだが、なんとか宥めすかしてローの船長室に連れてくることが出来た。
ルフィが厨房と食料庫に入ってくるさまを想像したのか、コックが浮かべた絶望に満ちた表情はしばらく忘れることが出来ないだろう。
ローは自分用に淹れたコーヒーをテーブルに置いて、ソファの空いたところへとようやく腰を落ち着けた。ルフィの前にも、厨房から持ってきたジュースの瓶が置かれている。

一度言い出したら強情で、意地でもコックから離れようとしなかったルフィを、ローは「船長会議に付き合って貰う」という名目で引き剥がしていた。
さして話合うことも無いのだが、ローの部屋に入って早々。ルフィが「そんで、おれは何をすればいいんだ!?」と目を輝かせるので――「とりあえず茶をしばく」と答えて、現在に至っている。

まだ熱いコーヒーを慎重に啜りながら、ローは隣に座ったルフィの様子をじっと観察した。
未だにじんじんとした違和感が残っているのか、首を傾げながらもぞもぞとタオルを頬に擦りつけている。
少なくともサニー号にいた時のように不機嫌では無いようだが、これで機嫌が直ったと言えるのか、判断は付き難い。
(そもそも、麦わら屋が何を求めてるのかわからねェんだ――)なんて思いを巡らせながら、横目で視線を送っていると、ルフィは「あっ、茶ァしばかなきゃいけねェんだった!」と声をあげてジュースを手に取った。

ルフィの態度がどうしても解せずに、ローは怪訝な顔をする。
「なんでまた、よその船を手伝いたがるんだ……」
「よそじゃねェよ!トラ男の船だろ!」
「いやそういう意味じゃなく……ああもう!」
返ってきた見当違いの答えに毒気を抜かれて、ローは肩を落とした。
つい反論をしてしまいそうになったが、ぐっとこらえるように頭を乱暴に掻く。

こういう時に細かい所を突っ込めば、余計話が拗れるのが常なのだ。
ルフィと会話のキャッチボールをするなら、全てストレートを投げなければいけない。ローはひとつひとつ文脈に考えを走らせながら――ルフィに疑問をぶつける。

「一日一緒にいると言っても、別におれの船じゃなくて良かっただろう……おれは麦わら屋の機嫌を直すためにお前を一日借りてんだぞ?もっと――飯屋に連れて行けだとか、肉を腹いっぱい食わせろだとか、やりようはあっただろうが」
「肉食べほーだいは捨てがてェよなー!!……あっ違ェ!」
肉という単語に釣られて、ルフィは一瞬話を逸しそうになったが、じっとりと自分を見つめてくるローの視線に、我に返ったようだ。

「今日は肉が食いてェんじゃなくて、トラ男をホキューしてェんだ!」
「あァ?」

ボールが返ってきたとしても、それを受け止められるかどうかは相手にかかっている。というのもルフィとの会話の厄介なところだ。
ルフィの言う『ホキュー』の意味がわからず困惑した様子のローに、ルフィはわざとらしく腕を組み、頬を膨らませて見せる。

「トラ男が『同盟は終わりだ』なんて言うからおれはすっげェおこってんだぞ!」
「それは、聞いたが――」

ローはそこでふと、言葉を途切らせた。
腕を組んだまま、視線を床に落としたルフィの姿、睫毛を伏せたその横顔があまりにしおらしく――憂いの色が滲んでいたからだ。
それはサニー号で見せたものと同じ表情で、ローはごくりと息を飲む。
普段見せない表情だからこそ、時折ルフィが見せる“影”だとか“迷い”を見せられると、胸が掻きむしられるようなたまらない気持ちになってしょうがない。

「もうトラ男と一緒にいられねェのかって思ったら、心がポッカリして……すげェ、ヤな気持ちになって……」
床に視線を落としたまま、独白のように話を続けるルフィ。
いつになく低い声は、ローの耳には寂しげに震えているように聞こえた。

言葉が最後まで吐ききられるのを待たずに、ローはルフィ肩に手を回してぐっと引き寄せた。
伏せられていた瞳が、驚いたようにようやく上を向いて、合わさった視線にローは僅かに安堵感と――罪悪感を覚える。
「――悪かったよ」
ローの謝罪はぶっきらぼうで、単純だった。
しかしルフィは、それを待ちわびていたと、噛みしめるようにむずむずと口元を動かして、自分の体を抱き寄せるローの腕に、ぎゅうっとしがみついた。

「おれ、トラ男がスキだけど、トラ男の仲間もスキだ。それと――仲間と一緒にいるトラ男もすげェスキだから……この船にいたら、トラ男は側にいるんだってホキューできるからよ、ここが一番いい――だから、トラ男の船にカシダシだ」

「もうあんなこと言わねェ?」
「あァ……」
ルフィの言葉一つ一つを受け止める度、それに応えるように髪を撫でていたロー。
瞳に浮かんでいた不安げな色がようやく溶けきってから――ローはもう一度ルフィの体をきつく抱き直した。
「おれはトラ男のこと信じてェんだ」とすり寄ってくる姿は、いじらしく胸を打ってくる。

同盟だと言えど、元々ルフィとローは敵船の船長同士だ。
ローを信じたいというのがルフィ個人の願いだったとしても『船長』という立場がそれを許さないこともある。
その矛盾が、まっすぐなルフィには耐え難いものだったのだろう。
特に『一瞬でもローを疑わなければならなかった』という事実が――ルフィの心に動揺を残していた。

ローが側にいることを確かめるように、ぐりぐりと顔を寄せてくるルフィ。麦わら帽子はいつの間にか脱げて、背中に落ちてしまっている。
その頭を宥めるように撫でながら、無防備に晒された耳元へ唇を寄せる。
「なぁ、麦わら屋。お前の貸出期間は今日一日だったよな?」
「ん?そーだけど……」

「その期限を“明日の朝”まで延長してェんだが……」

そう言ってこつんと額を合わせたロー。
眼前に広がったルフィの表情はきょとんと呆けていたが、しばらくしてローの意図する所を悟ったのか――嬉しそうに綻んだ。
「おう!いいぞ!!」
そう言って嬉しそうに腕を巻きつけてくるルフィに少しの苦しさを感じながら、ローは押し付けられた体を強く抱きしめ返す。

『トラ男を補給』だなんて可愛いことを言うのなら、もう嫌だと言うまで補給させてやる。
元々ルフィの機嫌を直してから、送り届けるはずだったのだ。
甘やかせるだけ甘やかして、おつりが来るほど上機嫌にさせてから返してもバチは当たらないだろう。

そんな風に浮き足立っているローの頭からは『サニー号に連絡を入れなければ』なんてことはすっかり抜け落ちてしまっていて――
翌日ルフィを送り届けた時、ナミに『無断延滞料金』をふっかけられる羽目になるのだが、今は知る由もなかった。






END




(2016/06/08)



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