瞼の薄い皮膚は、ぼんやりと明るくなってきた外の光を迎え入れて、夢に微睡む瞳へと送り届けた。
重なっていた睫毛を震わせながら、ローは緩い覚醒の途に立つ。ぼんやりと視界に浮かび上がる天井の模様を見つめると、小さくな欠伸が漏れた。
今は何時だろう? 寝転がったまま枕元をまさぐって、丸い置き時計を手に取る。明かりの足りない室内だ、じっと目を凝らして針を読み解くと、丁度日の出まで四半刻といった時分であった。
少し早い気はするが【こいつ】のことだ、今起こしておいて丁度良いだろう。そう思い至って、ローは隣に眠っているルフィの肩に手をかけた。
「おい、麦わら屋。起きろ」
「……んー?」
肩を揺さぶってみたが、起きる気配はない。しっかりと目を閉じたまま、むにゃむにゃと口を動かすルフィに、ローは呆れたようなため息を吐いた。
「日の出を見るんじゃなかったのか」
「うー……」
再び体を揺さぶってくる手、それから逃れるようにルフィは身体をよじる。とうとういもむしのように丸まってしまい、その頑なさを見て、ローはルフィを起こすことを諦めた。
ベッドから立ち上がり、窓辺に寄る。カーテンは遮光性の高いものであるが、布が重なる隙間から、淡く灰色の光が漏れていた。
少しだけカーテンを開いて、外の様子をたしかめる。そうすると、東の空は白んできていて、水平線の向こうには確かに太陽があると知らせていた。
東に向かう坂に作られた街。その海岸沿いに建てられたホテルでは、窓から見える景色は一面の海だ。
新しい一日を迎えるにはうってつけの場所で、年をこえる特別な日となれば、客室は満室となる。そして、今日こそがその日なのであった。
再びカーテンを閉めて、部屋の方へ向き直る。やはりルフィは眠りこけたままで、どうしても起きる様子はないようだ。
昨晩のルフィは『朝まで起きて初日の出を見る!』と意気込んでいた。しかし、二人共酒が入っていた上に、日付が変わるのも待たずに体を重ね合ったせいで、行為が終わる頃にはすやすやと夢の中へ旅立ってしまったのだった。
それならせめて、夜明け前に起こしてやろうと思ったのだが……この様子ではどうしようもない。
少しばかりだが、まだ日の出までには時間がある。もうすこし寝かせてやって、いよいよ日が昇る頃にもう一度起こしてやるか。それまで身支度でも整えようと、ローはバスルームへと向かった。
蛇口を捻ると、流れ出した水が陶器の洗面台を打った。冬の朝のに冷やされた水は、指で触れれば刃物で切られたのではないかと錯覚してしまうほど、ひややかだ。
さすがにこれで顔を洗うのは躊躇われて、ガスの栓を開いた。ごうんごうんと唸りをあげて湯が沸いていくのを、火が見える小窓からぼうっと見つめる。
まもなく陶器の表面から湯気が立ち始めて、曇り止めを塗られた部分だけを残して鏡を白く曇らせた。あたたかい湯を両の手のひらに受ける。その湯で顔を洗うと、心なしか頬のあたりが上気するような感覚がした。
棚に置いてあったシェービングクリームを顔に塗りつけて、レザーを手に取る。よく研がれた刃はするすると肌の上を滑り、うっすらとはえた髭を整えていった。
そうしてクリームを塗ったところを全て剃り終えたとき、ふと鏡越しの視線に気がついた。くるんと丸い瞳が、鏡にうつるローの姿を見つめている。
この洗面台からは、ベッドの様子が見えるのだ。シーツに横たわったまま、ルフィはバスルームに立つローの方を見ていた。
細められた目と、ゆるく笑みをたたえた口元。ルフィの表情は言いようがない慈しみに満ちていて、そのさまにローは息を呑んだ。
湯のせいで上気していた頬がさらに熱くなる、胸の鼓動が一層大きくなるのを感じた。
そんなどぎまぎした様子を気取られまいと、ローはもう一度湯で顔をゆすぐ。一拍、息を吐いてから、タオルを手に取りベッドルームへと向き直った。
「起きたのか」
「おう!」
にしし! と笑うルフィの表情は、普段通りに戻っていたが、ローの心臓は未だ強く鼓動を打っていた。
ふと置き時計を見やれば、もう数分で日の出となる時刻になっている。
ルフィはもぞもぞとベッドから起き上がり、床へと足をおろした。腰にシーツを絡ませたまま、ずるずると窓辺に寄っていく。シーツが床に全部落ちたところで、ようやく窓にたどり着き、カーテンに両手をかけた。
しゅっとレールが擦れる音と共にカーテンが開き、白んだ朝が部屋を包み込んだ。
水平線は赤く染まり、空と海の隙間から光の矢が放たれる。その眩しさにローは目を細めた。
視界に映るのは黒く浮かび上がるルフィの輪郭だけで、それを見ていると、まるでこの世界に彼しかいなくなってしまったようだ、なんて気分にさせられた。
ようやく目も光に慣れたころ、ルフィはくるりと後ろへ振り向いた。はにかんだような表情に、またどぎまぎしてしまう。
じっとバスルームの前に立ち尽くしたままだったローに、ルフィは手招きをした。
「トラ男? ぼうっとしてんなよ」
「あァ……」
声をかけられてようやく、ローは窓辺に歩み寄った。ルフィの隣に立って、今度はじっと外を見つめる。
太陽はようやく海から離れ、水面に金色の路をうつしている。明かりを消したままの部屋には、反射した波の模様が浮かんで、まるで水の中にいるかのようだ。
しいんとした部屋に、ふたりきり。
この部屋だけが、世界から切り取られたような、世界にふたりしか存在していないような、そんな錯覚すら覚える。
それは、ローにとっては幸せな想像だった。
するりと手の甲を滑る指先の感触に、ローははっと我に返った。
ルフィの手は甘えるようにローの手を擦り、きゅっと強いちからで指を絡めてくる。
意図を伺うように視線を落とせば、黒い瞳はきらきらと朝の光を反射しながら、ローをとらえていた。
「……準備したらさ、外に行こうぜ。屋台でうめェもん、売ってるかもしれねェだろ?」
「……そうだな、そうしよう」
「やったー!」
無邪気に喜ぶルフィに、ローはようやく顔をほころばせた。繋がれたままの指先を強く握り返し、彼の感触を確かめる。
外の景色は相変わらず美しく、白い光で二人を包んでいたが、もう馬鹿げた想像をすることもなかった。
きつく握りあった手のひらは、確かにローと現実を結びとめている。
時刻はもうすぐ七時を迎えようとしているが、その手が離れることは暫くなさそうであった。
END
(2018/01/01)
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