彼に出会ったのは丁度今日のような、凍てつく寒さが肌を刺す季節であった。
 健やかな容貌の中に時折見せる妖艶な姿、ボクにとって彼は毒婦も同然だった。彼が紡いだ物語の主人公のように、ボクは彼に囚われ、夢中になっていた。

 縄で縛られ鴨居に吊るされた黒髪の少年。滑らかな肌に食い込む赤い麻縄はまるで少年を飾り立てるリボンのようですらある。その情景がありありと思い浮かび、恥じらう息遣いさえも聞こえて来そうだった。
 官能小説家である神座出流の最新作は、ゲイという種類の人間を取り扱ったものだった。今まで彼の小説は様々な性倒錯を扱ってきたが、初めての試みだ。

 神座出流の大ファンであるボクは、早速書店に並んだSM雑誌を手に取った。購入する時の恥じらいなど、『もしかしたら、これでボクの性癖が塗り替えられてしまうのではないか』という、不安からすれば小さなものだった。
 彼の小説は、どれも私小説の体で書かれている。もしかしたら、実話なのだろうか――とさえ思えるような、リアリティのある描写にボクはすっかり虜になっていた。

 最後の一文字まで余すところなく読みおわり、ボクは深く息をついた。短編は今回も素晴らしい出来だった。ノーマルな性観念を持っていた主人公が、美少年の妖艶さに飲み込まれていく描写は妙に人間味がある。
 もしかしたらこれも先生の実体験なのだろうか、そう思わせられると言う事は、神座出流の手腕が本物であるということなのだろう。
 滅多にメディアに露出することがなく、性別しかわからない神座先生。彼への興味は作品を読み重ねるにつれ大きくなっていた。

 カーテンの間から、光が漏れているのに気がついて、ボクははっとした。いつの間にか時計は9時を回っている。
 今日は午前中のうちに出版社に寄らなくてはいけない日だったのに。自分の原稿のめどが付いたからと、雑誌を読み始めたのがいけなかった。

 ボクは『苗木誠』というペンネームで小説を執筆している。ジャンルはミステリーを扱っているが、成果は鳴かず飛ばずといった感じだ。
 ――発想はいいんですけどねぇ……――と眉間に皺を寄せる担当。もうちょっと現実的なキャラクターを描けませんか、人物が突飛すぎて、共感を得ることができない。と何度も言われたが、これが中々難しい。
 実は神座出流の小説に出会ったのは、人物描写が上手い作家を探し、様々なジャンルの本を乱れ読みしていた頃の話だった。

 顔を洗って歯を磨き、最低限の身支度を整えてボクは家を出た。出版社まではここから電車で半時間ほどかかる。
 外はもう寒々とした風が吹き抜ける季節だ。普段家から出ることの少ないボクにとって、出版社に出かける時と書店に出かける時だけが、外の季節に触れられる貴重な機会であった。





 ボクの原稿を読んだ担当は、やはり人物描写が問題だ。と指摘してきた。
 『勉強してはいるのですが』と、肩を落とすボクに担当は苦笑いしながら『前よりかは大分良くなってきてます。あと一歩ですよ』と付け加えてきた。
 結局、修正する点はあったが、文芸誌に載せてもらえるようになりホッとした。編集部内の打ち合わせスペースから出てくると、丁度隣のブースからも、編集者と作家らしき2人組が出てきたところだった。

 ――神座先生――
 聞こえてきた単語に背筋が粟立った。視線の先には大柄な編集者が立っている。その体に隠れて姿が見えないが、誰かがいるようだ。
 もしかしてその先に、神座先生が……ボクの視線はその2人に釘付けだった。
 突然固まったボクに担当は訝しげな顔をしていたが、ボクの視線の先を見て合点がいったようだ。
 「ああ、神座先生も打ち合わせが終わったみたいですね」
 そう言うと担当は2人に近づいていって、編集者に話しかけた。2、3言葉を交わした後、ボクに手招きをする。

 ボクは緊張で、右手と右足が同時に出そうになりながら、よろよろと3人に近づいていった。
「苗木先生。こちらは神座出流先生です」
「どうも、神座です」
 はじめまして、と頭を下げる彼をボクは食い入るように見つめていた。
 短く切られた髪、ぴょんと立った毛が特徴的だ。切れ長の目は薄い緑色で灯りを反射して、キラキラしている。
 肌の色も健康そうにやけていて、文学者然とはしていなかった。
 きりっと釣り上がった眉は意志の強さを感じさせて、ボクはその精悍な顔に見入ってしまった。
「な、な、苗木誠です。はじめまして!」
 はっとして、慌てて挨拶を返す。上擦ってしまった声に死にたくなった。しかし神座先生はそんなボクを嘲笑ったりせずに、人のよい笑みを浮かべている。

「苗木先生!この前雑誌に載っていた話を読みました。記憶喪失もあんな使い方をすると映えるんですね!人物もトリッキーで読んでて飽きなかったです」
 神座先生がボクなんかの小説を読んでくれている。その事実だけでボクの脳のキャパシティは完全に越えてしまった。天にも登れそうな、逆に地面に埋まってしまいたいような複雑な感情を覚える。
「ボクも神座先生の小説いつも読んでます!まるでそこに人がいるかのように息遣いの感じられる文体は憧れです……!今朝だって雑誌に寄稿された新作を読んできました」
 神座先生はキョトンとした後に、どの作品のことを言っているか理解したようで、あああれ、と苦笑いした。

「苗木先生みたいな若い人に読んで貰えてるとは思わなかったです。俺のはジャンル的にもうちょっと年配の人が読むものかと思っていたので……」
 本人の前で舞い上がってしまい失念していたが、神座先生は官能小説家だったのだ。確かに読者層はボクなんかよりもっと年上の年代を狙っているだろう。
 それにこんな所で官能小説の感想を捲し立てるボクは、相当なスキモノだと思われてはいないだろうか。ニの句を継ぐことができなくなり、もじもじしていると、その沈黙を破るように昼休みを知らせるチャイムが鳴った。

「ああ、もうこんな時間か」
 腕時計を確認する神座先生の動作、腕の角度に男らしさを感じさせられて、この人は実在しているんだと改めて実感する。目を伏せると濃いまつげが際立ち、どぎまぎする。
「苗木先生、良ければお昼ご一緒しませんか、せっかく会えたのにこのまま別れるのは惜しい気がして」
「え……いいんですか!」
 願ってもない申し出に歓喜に震える。担当に別れを告げてして神座先生の後を付いていく、その間もふわふわとした浮遊感に襲われ、先生の見ていない所で自分の手をつねってみたり、頬を叩いてみたりしてこれが現実であるか確かめるのに必死だった。



 神座先生に連れられてやって来たのは出版社のほど近くにある定食屋だった。どうやら先生は和食が好みらしい。
 焼き魚の身を綺麗に解して口に運ぶ一連の動作は様になっていて、ちらちらと先生を見やっては咀嚼する様にうっとりと見とれた。上下する喉はなんとも健康的だ。
 それに比べてボクときたら……バラバラになった魚の身が散らばった皿を見て溜息を付く。箸を使うのが上手い方ではなかったが、まさかこんな所で恥をかくとは思わなかった。
 神座先生の皿の上には綺麗に骨だけが残っていて、見比べていると頭を抱えたくなった。

   ふと座敷に黒い何かが落ちているのが目についた。身を乗り出して手に取ると、それはパスケースのようだ。神座先生は今席を外しているので、立ち上がった時に落としたのかも知れない。
 そのまま返せばいい、と言う事は重々承知なのだが、パスケースの中に何が入っているのかがとても気になった。食事を採っている間も気さくに話しかけてくれる神座先生。
 こんなに人と話したのは久しぶりで、ボクの興味は神座先生の作品から先生自身へと移ってしまっていたのだ。

 誘惑に耐え切れずにそっとパスケースを開いた。そこには運転免許証が入っていて証明写真にありがちな険のある表情をした先生の写真もプリントされていた。しかしそれよりも気になったのは名前の欄にある『日向創』の文字だ。

「ひなた……はじめ……?」
「えっ?」
「えっ?うわぁぁぁぁぁ!!か、神座先生!?」

 振り返るといつの間にか神座先生が戻ってきていて、心臓が縮こまるかと思った。神座先生は怪訝そうな顔でこちらを見ている。いきなり本名を呼ばれたから不審がっているのだ、と思い至るまでには少しの時間を要した。
「ご、ごめんなさい。パスケースが落ちてたので中身見ちゃって…!」
「あー…それで」
 神座先生はそれで合点がいったようで、頭を下げるボクを宥めながらパスケースをを受け取ってくれた。

「神座先生。本名は日向創……って言うんですか?」
 ボクの問いかけに神座先生は、自虐的な笑みを浮かべた。そこからはある種の諦めに似た寂しさが感じられて、胸がざわつく。
「……ああ。平凡でツマラナイ名前でしょう?こんな名前で人前に出るのも恥ずかしくて神座出流なんて大仰なペンネームを使って……」
「そんなことない!」
 いきなり大声を出したボクに、先生は目を丸くする。

「日向創がつまらない名前だなんて、そんなことないよ…!ボクはキミにぴったりな素敵な名前だと思う。こんなボクにだって優しく接してくれる……あたたかい……おひさまみたいなキミに……!」
 そうボクが言い終わらないうちに、神座先生は可笑しそうに肩を震わせて笑い始めた。なにか変なことを言ってしまっただろうか?不安で身が竦む。
「悪い、笑っちまって。お前があんまり必死だから……」
 いつの間にかボクも先生も敬語なんて忘れてしまっていた。でも不思議と不快感は起こらず、むしろ男らしい朴訥な喋り方が好ましいとすら思えた。欠けていたパズルのピースが揃ったかのような、奇妙な“らしさ”を感じる。

「ありがとな。……で、お前は?」
「え……」
「名前、教えてくれないのか?」
「あっ、そっか!そうだよね!ボクは狛枝凪斗だよ。ひ……日向クン」
「狛枝凪斗、か。うん。お前もいい名前じゃん」
 そう言って破顔一笑する日向クンに、ボクは胸をかき混ぜられたような疼きを覚える。『神座出流』ではなく『日向創』の笑顔がボクに向けられている事に、どうしようも無い喜びを感じた。

「改めて、よろしくな。狛枝」
 そう言って差し出された手をいつまでも離したくないと思うぐらい、ボクは彼に夢中になっていた。




 部屋に帰って来ると一直線にベッドに突っ伏した。まだ日も沈みきっていないのに頭の中では、走馬灯のように今日の出来事が再生されている。濃密な一日だった。
 憧れだった神座先生とご飯を共にした上に、日向クン、などと本名で呼び合う仲になるなんて……
「ひなた、はじめクン。かぁ……」
 口に出したら何だか恥ずかしくなり、手近にあった枕をぎゅうぎゅう抱きしめてやりすごす。初恋をした女学生か、二十歳を過ぎた男がこれでは気持ち悪いと思うが、どうにもできなかった。

 ふと机の上に無造作に置かれた雑誌が目に入り、手を伸ばす。表紙には短編のタイトルと一緒に神座出流の名前がプリントされていた。
 そして表紙を飾る女優の写真、白い肌には蜘蛛の巣のように縄が巡らされて、なんとも艶かしい苦悶の表情を浮かべている。
 日向クンにお近づきになるにつれ、本当に彼が数々の性倒錯を描き出す官能小説家なのか疑問が浮かんできた。彼はどこからどうみても健康的な好青年で、そういったアブノーマルな世界からは無縁のように見える。
 前述のとおり私小説の体で書かれる彼の小説故、主人公=作者といった感覚で読んでいたのだが、どうもそうは思えない。
 いや、思いたくないといった方が正しいのかもしれない。

 彼の小説が実体験だとすれば、相当な人数と体を交わしていることになる、彼の手により縄で縛られた人がいるのだろうか?彼の顔をヒールで踏んづけた人が?そんな事を考えると胸が苦しくなり頭が狂いそうになる。誰からどう見ても嫉妬だった。
 第一彼の健やかな容姿では、ある種の下衆さを持った享楽的な主人公に似合わない。どちらかと言えば、日向クンはこの短編に出てきた美少年のような、健康的な美しさと艶かしさを持って――
――縄で縛られ鴨居に吊るされた日向クン。赤い麻縄は、彼のやけた肌にもきっと映える事だろう。

 それを想像した瞬間、全身の血が体験したことのない早さでめぐるのを感じた。もうその時には遅い、彼の卓越なる文才によって描き出された美少年はボクの中で日向クンに変換され、痴態を演じ始めていた。
 こんなこと、彼に失礼だ。必死で別のことを考えようとするも、溢れ出てくる妄想は止められず。性器は完全に勃ちあがってしまっていた。
 これは触ってしまったら、もう戻れない気がする。ボクは緩んだ涙腺を引き締めるようにすんと鼻を鳴らした。

 小説の中に出てきた少年は、愛する人を満たすためにフェラチオをしていた。愛おしそうに唇を寄せ、キスをする。そうして熱い口内へと昂ぶりを収めていく……黒髪の少年の姿が、日向クンへと変わった。性器に這わされる舌は赤くて熱い。

「ぅ……ああ」
 ボクはたまらなくなってズボンに手を入れた。性器を取り出して、激しく扱く。快感の波が足の爪先から頭までを何度も何度も突き抜けていく。
 こんな激しい快楽は初めてで、足の指に力を入れてなんとかやり過ごそうとする。それに対して手は欲を満たすように動きまわり、意思と欲望が背反していることを表していた。
 手の動きと妄想の中の日向クンの動きをリンクさせるとさらに心地が良かった。この指が彼の舌だったら、チロチロと這わされる薄いそれを想像しながら指で軽く引っ掻くと、そこから甘い疼きが全身に広がっていく。

「んっ……く、ぅ」
 激しい快楽に、汗ばんで来ていたシャツがしっとりと吸い付く。滅多に自慰をしない体は耐性もなく、まもなく限界が訪れて、ボクは妄想の中で彼の口の中に射精した。
――美味しかったぞ、こまえだぁ……
 そうやって艶かしく舌なめずりする姿さえ思い描く自分の浅ましさに、激しい自己嫌悪を覚える。

「……最っ低だよ……」
 吐く息は未だに荒い。ティッシュを手に取り、吐き出した欲望の残渣を拭いながら、昼間の日向クンの笑顔を思い出す。汚してしまった。彼を。
 次に会う時、どんな顔をすれば良いのだろうか、平静を保てるのかが心配だ。


 落ち着くためにコーヒーでも淹れようと立ち上がる。乱れたベッドの上には、無意識に掴んでしまいぐしゃぐしゃになった雑誌だけが残されていた。






<続>




(2014/03/01)



よろしければWeb拍手をどうぞ。
inserted by FC2 system