――4. dawn


 まだ昼間の筈なのに、草木が生い茂った小道は、薄暗く湿っている。
 ざわざわと、葉がこすれあう音に追いかけられながら、立香≠ヘ家に帰る道を探して、走り回っていた。

 ついさっきまで、公園で遊んでいたつもりだったのに、寝ぼけてしまっていたんだろうか。手に持っていたはずのボールも見当たらないし、約束をしていた友達の姿もない。
 そもそも、一体ここはどこだろう? こんな、森みたいにたくさん木がある場所なんて、うちの近くにはなかったはずだ。
 胸の中が不安でいっぱいになって、立香はまた、何かから逃げるように駆け出した。
 濡れた落ち葉に足を取られて、何度も転びそうになる。一生懸命走っているのに、息が苦しくならないのが不思議だった。

 いくら走り回っても、周りの景色が変わることはない。
 夜までに帰らなかったら、お父さんとお母さんは、俺を探してくれるだろうか? そう期待しても、未だ日が暮れる気配すらない。
 どうしたらいいかわからなくなって、とうとう立香の目尻からは、ぽろぽろ涙が零れ始めた。
 ぐずぐずとはなを啜っていると、不意に後ろから物音がして、立香は反射的にその方へ振り向いた。

「ひっ……」
 なにかおそろしいものが見えて、立香は声にならない悲鳴をあげた。
(あれはゆうれい? それとも、ばけもの?)
 恐ろしいはずなのに、体がすくんでしまって、目をそらすことすらできない。

 おそろしいものは、ゆらゆらと蜃気楼のように姿を変える。
 いかにも幽霊といった見た目をしていたかと思えば、槍を持った骸骨のようにも見える、鋭い爪をもった獣にも、恐ろしいヘルメットを被った兵士にも見えた。
(だれか、だれかたすけて)
 助けを呼びたくても、恐ろしくて声も出ない。
 じっと立ち尽くした立香に、おそろしいものの影が這い寄ってくる。ゆっくりとした動きなのに、立香を逃すまいとする殺気だけは、ひしひしと伝わってきた。

「だれか……!」
 おそろしいものの一端が、立香に触れようかというとき――不意に、あたりに明るい光が差し込んだ。
 眩しさに気を取られて、立香は目を細める。その瞬間、目の前で何かが潰れる音が聞こえた。
 あれがいた方へ視線を戻すと、そこにはもうおそろしいものの姿は無く――その代わりに、物語に出てくるような、マントと甲冑を身に着けた騎士が立っていた。

「りつか、私の愛しい立香。もう怖いことはありませんよ」

 いつの間にか木立の隙間から、太陽の光が零れている。きらきらと輝く金髪が眩しくて、立香はぱちぱちと瞬きをした。
 そのあどけない表情を見て、騎士は柔らかな微笑みを浮かべる。
(優しそうな人……)
 幼い立香≠フ心は、素直にそう受け取った。
「さぁ、早くここから醒めましょう。ご両親が心配していらっしゃいます」
 彼は幼いから、小さな体躯を抱き上げる腕が、必要以上にきつく抱きしめてくることも、唇にキスを落とされたことも、おかしくは思わなかったし――碧い瞳の奥に、深い思慕の情が浮かんでいることにも、気が付きはしない。

 これは夢の話だ。
 幼い頃、交通事故に遭った立香が見た夢。
 そして、自分にしか見えなかった、かげろうの騎士のゆめまぼろし――その一端であった。



 日の出の時刻は過ぎているはずなのに、強い吹雪のせいで未だ外は薄暗い。ここ最近みなかった悪天候で、立香は残念がるように、小さく息を吐いた。
 外の景色を切り取っている窓に、そっと額を預ける。特殊な加工をした強化ガラスは、きちんと断熱処理もされているはずなのに、吹雪を透かしているせいか、やたら冷たく感じられた。

 あと数時間したら、新たなオペレーションが始まる。行く当ては現在≠フアメリカ合衆国、マサチューセッツ州セイレム――今にはっきりと影響を与えている、前代未聞の亜種特異点だ。
 今までの特異点だって、予想外が起こらないなんてことは有り得なかった。今更任務自体に不安はない。しかし――

(これが最後かもしれないのか)

 ダ・ヴィンチから明言された訳ではないが、立香にはその確証があった。これが最後の魔神柱案件であり、このオペレーションを成功させれば、人理修復は完遂となるだろう。
 そうすれば、今度こそ……何もかもと、お別れなのだと――

「立香、そのような所にいたら、体が冷え切ってしまいますよ」
 不意に後ろから抱きしめられて、立香は驚いたように後ろへ振り向く。そこにはいつの間にか、ガウェインの姿があった。物思いに耽っていたせいか、足音にも全く気がつかなかった。
 彼のマントの中へ、迎え入れるようにして、体を包まれる。そうすると、伝わってくるあたたかさに、心がとろけるような気分になった。
 硝子のせいで冷え切った額に、やわらかく口づけをされて、立香はくすぐったさに小さく体を竦める。

 ガウェインは装備を解いた手で、伺うように立香の下瞼を撫でた。とくに隈ができている様子もなく、ガウェインは安堵したように、表情を和らげる。
 こんな朝早くから起き出して、任務前夜だというのに、眠れなかったのだろうかと心配したが……そういう訳でもなさそうだ。
 セイレムに向かうメンバーに、ガウェインは選ばれていない。
 せめて旅立つ前にひと目会いたいと、立香の部屋に向かったら、ベッドがもぬけの殻だったので――何かあったのかと焦りが募り、カルデア中を探し回っていたのだ。

 大きな窓に面した廊下には、沈黙が満ちている。立香はガウェインの腕に抱きしめられたまま、未だ明かりの見えない、外の景色を見つめていた。
「レイシフトの前に、外を見ておきたかったんだけど……これじゃあ、まだ夜中みたいだね」
 ガウェインは立香を腕の中に閉じ込めたまま、彼の横顔にそっと頬を寄せた。
 それは、二度と戻れない故郷を想うような、惜別の表情を浮かべる彼に見ないふり≠してあげるためだ。
 ガウェインの脳裏には、以前立香とともに、カルデアの外へ出たときのことが浮かんでいた。

 あの時私は、途方に暮れていた。いつ来るかもわからない彼との別れを恐れて。
 しかし、今はどうだろう。今度は立香の方が、待ち受ける未来に対して、途方に暮れている。

 彼の体に回していた腕を解くと、立香は戸惑ったように、ガウェインの瞳を見つめた。
 ガウェインは、不安げに揺れる瞳の前に跪いて、彼の右手を取った。そうして、裂傷にも見える令呪の印に、そっと唇を押し当てる。
「――いいえ、立香。確かに朝は来ております。今は見えずとも、陽光は必ず貴方のもとを照らしましょう」
 契約の要である場所からは、彼の魔力のさざめきが感じられる。それはトクトクと、心臓の鼓動のように波打っていた。
 ちゅう、と強く皮膚を吸われて、立香は微かな痛みに眉を寄せる。手の甲にうっすら残った赤い痕に、ガウェインは満足げな表情を浮かべて、その手を両腕で包み込んだ。

 あの日――ガウェインはもう一度、マスター・立香と夢の共有≠した。
 幼い彼の元に現れた、名も知らぬ騎士の夢。
 目覚めたマスターに聞けば、彼は交通事故に遭った経験など無いという話だ。であれば、あの記憶は彼のものではなく、どこかで発生したIF≠ナ起こったことなのだろう。
 その『もしも』の存在は、ガウェインにとって大きなよすがになった。
 人理修復という大義名分が無かったとしても、彼自身だけを守る騎士として、存在する道もあるのだと――

 そうであれば、もう彼との別れを恐れることはない。可能性があるとするならば、それを手繰り寄せればいいだけの話なのだから。

「私のマスター、私の立香。たとえこのオペレーションを終えて座に還ろうとも、私は永遠に貴方をお守り申し上げます。貴方には見えずともIF≠フ向こう側から、何度でも手を伸ばしましょう」
 ガウェインの言葉を聞いて、立香の目尻がじわりと赤くなる。その端から雫がこぼれだす前に、ガウェインは彼の瞼へ唇を寄せた。
 立ち上がった騎士の腕に抱きしめられながら、立香は彼の存在を確かめるように、背中へ自らの腕を回す。そうすると、唇にやわらかな感触が降ってきて、立香はそっと目を閉じた。

 舌を絡め合うわけではなく、ただそばにいることを伝え合うように、キスをくりかえす。
 そうしているうちに、いつの間にか時間は流れていたのだろう。ある時になって、ミッション開始を予告する放送が館内に響いた。
「――行かなくちゃ」
「ええ――私も管制室までお供いたします」
 するりと離れてしまった体を、素直に名残惜しみながら、ガウェインは立香に続いて、廊下を歩んでいく。

 二人の姿が見えなくなり、足音すら聞こえなくなっても、硝子の窓は変わらず外の景色を切り取っている。
 一面を覆い尽くす氷雪は、未だ止みそうにはないが――少しずつ淡くなっていく灰色は、その向こう側に朝日が待っていることを、確かに暗喩していた。






END



(2019/07/14)





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